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ストーリー

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2013年の夏…

その頃、僕は「腐ってた」

「なぜ、自分だけがこんな想いをしなくていけないんだ!?」とか、「俺はこんなに努力しているのになぜ誰も分かってくれないんだ!?」とか、確かそんな事をずっと思っていた気がする。とにかく物凄くフラストレーションがたまっていた事だけは覚えている…

僕の名前は、宮城哲郎。

もしかしたら、あなたもすでに僕の名前ぐらいは知っているかもしれないが、この琉球フットーボール協会が運営しているフットーボールチーム、琉球代表というチームの選手兼監督という立場で仕事をさせてもらっている人物である。

大した活躍も実績も残せなかったが、一応プロのサッカー選手として、地元沖縄、そしてブラジルの小さなクラブに所属していた経験がある。ま、その程度のプレイヤーだ。

だが、サッカーに対する情熱は誰にも負けないつもりだった、地球の反対側の地でサッカー選手として用済みになった時でさえも、僕はサッカーに対する情熱を失う事は無かったし、むしろ次の未来に向けて希望に満ちあふれていた。

なぜなら、帰国する直前、当時のお世話になった代理人が見せてくれたブラジルのサッカーの裏側、スポーツが街を…いや違うな、サッカーが街を動かしているという衝撃的な光景を目の当たりにした出来事がサッカー人としての僕を更に情熱的にしてくれ、日本に帰ってもサッカーがしたいと強く心をたぎらせてくれたのだ。

僕がこの目で見たサッカーは、そしてスポーツは日本で感じたそれとは全く違った。とにかく国民の多くがサッカーに対して物凄い情熱があった。その情熱は計り知れなく、サッカーの試合がある日は、いわゆる泥棒と言われる人達でさえも、その仕事(?)の手を休めて、自分の好きなチームの応援をしていた。

それほどに、ブラジル人のサッカーに対する情熱は僕の心を奪っていった。別に綺麗事でもなんでもないのだが、単純に「自分の人生の中で、自分が出来るコトで生まれ育った場所でも同じ様な事がしたい。」そう感じていた。だから、僕は希望に満ちていたのである。

そして、すぐさま僕は行動にうつした。帰国後、次のチームを探す事をやめて一からサッカークラブを作った。単にサッカークラブを作っただけでは、街を動かす事はできない。そう思った僕は、多くの人達を巻き込んでいける様に、サッカー以外の活動も積極的に展開した。

フィットネスダンスやヨガ、ジョギングに水泳、バスケットボールにバレーボール、ビーチスポーツ、子供から大人までとにかくたくさんの人達に対してスポーツというきっかけを与える為の活動をした。その活動は多くの人達に認められ、いつしかそのクラブは周りの人達から「総合型地域スポーツクラブ」と呼ばれる様になった。

変な話だが、僕が思ってたものとは全く違う形で、多くの人達の賞賛を得る様になったのだ…。だけど、その時の気分は心地よかったのを覚えている。なぜなら、僕にはまだまだプレーヤーとしてのサッカーに関わっていたし、自分のクラブを大きくして強くしていけば、きっとブラジルで見たようなプロクラブを自分の手で作れる。そう感じていたからだ。

悲劇は突然起こった

あれは忘れもしない2012年9月23日、その時の僕は自分がスポーツクラブのシンボルでもある「サンビスカス沖縄FC」の選手として試合に出場していた。

この当時のクラブは活動規模も大きくなって来ており、スタッフはもちろん、サッカーチームの選手のレベルも高く。元プロのサッカー選手の経歴を持つ選手、世代別の日本代表になった経験のある選手、全国でも有数な強豪校出身の選手、もちろん沖縄県内の強豪校出身の選手達が在籍していた。

その中で、僕はチーム設立からエースナンバーの10を背負いゴールも量産。ほぼ毎シーズン得点王というタイトルを獲得するなど波に乗っていた。

もちろんチームもリーグ戦全勝中。この調子で行けば早くても数年ではカテゴリーを上げて九州、そして全国にいけるという感覚があったし、それほどに充実していたのを覚えている。しかし、そんな時に悲劇は起こった…

忘れもしない9月23日、その試合の終了2分前に僕はサッカー人生を大きく左右する大けがをしてしまったのだ。

試合の方は当時所属していたリーグの首位攻防戦。この試合に勝った方が大きく優勝に近づくという大一番。両チーム共に気合いも入り、試合開始前のアップから緊張感が漂う。

正直、アマチュアのリーグ戦にも関わらずこれほどの緊張感を持って試合をした記憶はない。それだけカテゴリーに関係無く両チーム共に「勝ちたい」という雰囲気に溢れ、そのせいか、僕は試合の前に妙な違和感を感じていたのだ。

まだ試合が始まっていないのにも関わらず、無性に左足のふくらはぎの方に違和感を感じる。アマチュアのリーグに所属しているといっても数年まではプロのサッカー選手だった僕。毎日のトレーニングも欠かさなかったし、食事管理も徹底していたのにも関わらず…

それでも足に感じる違和感は拭えない。これまで大きな怪我などもした事が無いし、自分でいうのもなんだが体力にも凄く自信もあったしそういうプレースタイルだというのも理解していた。そのせいか…

「ちょっと、気合いが入り過ぎているのかな?」

その程度の感覚でしか無かったのだ。

しかし、この時は誰も予想はしていなかった、後に来る大きな悲劇が訪れる事を…

試合は開始早々から両チーム共にハードワークをこなしながらいつ得点が入ってもおかしくはない様な状態試合展開、一進一退の攻防の中、両チームともなかなかゴールには結びつかずそのまま試合は前半が終了、勝負の行方は後半にもちこされた。

ハーフタイムで僕は激を飛ばす。

「いいか、ここで負けたらだ駄目だぞ!応援してくれる人達の為にもそして、自分達の為にも絶対にこの試合に勝つんだ!」そう伝えた。

チームのボルテージは最高潮、この試合には僕のこのチーム、そしてクラブにかける想いを知っている家族、サポーターの人達も応援に来てくれた。

「この人達の為にも勝ちたい。絶対に勝つんだ…」そう自分にも気合いをいれ直した。

しかし、後半が始まると流れは一変する。後半開始早々、自分達のミスにより失点をしてしまったのだ。喜ぶ相手チーム。そしてショックを隠せないチームメイト。だが、誰も諦めてはいない。

「まだいける。俺たちは負けない。」

アマチュアのリーグなのに何をそんなに熱くなっているんだ?…そんな事を揶揄されるような発言がチーム内からも飛び出す。「まだ。いける」僕もそう感じていた。逆転をしないといけないチームはメンバーを変更する。スピードのあるFWの選手を入れる事にしたのだ。

この監督の采配は見事にあたった。交代直後直ぐにその選手がゴールを決めたのだ。「同点…」

試合に振り出しにもどった。勢いは自分達にある。しかし、僕は冷静だった。監督に直談判をしポジションを少しさげてもらったのだ。「今は、まだ相手に勢いがあるからボランチの方に下げて欲しい。その後、隙を見て攻撃に出るのでそこで逆転をゴールが俺が決めるから。」そう伝えた。

監督もそれに了解をし、そのまま一進一退の攻防はつづく。試合時間も残り5分。相手の方にも少しだけ疲れが出たのか僕をマークするはずの選手の足が止まっていた。

これはチャンスだと思った。

「今、自分がゴール前に飛び出せばマークはいないからフリーでボールをもらえる。次の攻撃で最終ラインを突破したら迷わずゴール前に飛び込む。」そう決めていた。

すると、その数秒がまさにその機会が訪れる。先制ゴールを決めた選手が左サイドをドリブル突破。相手のDFラインが一気に崩れたのだ。

僕は、この機会を逃さないと自陣からゴール前に向けて走ったのだ。もう相手のマークは僕についてこれない。完全にフリーの状態。

左サイドを突破したチームメイトが、ペネルティエリアの横側の方からエリア内に進入する。それを阻止しようと多くのDFが彼の方に引き寄せられる。

その時、ゴール前がぽっかり空いて。ここからもうこっちの物だった。冷静に僕を見ていたチームメイトがグランダーの丁寧なパスを出す。僕は、そのまま勢いよく走りワンタッチでこれに合わせる。決まった。ゴールだ。

試合時間も残りは僅か。このゴールで完全に相手チームは意気消沈。そしてうちのチームは勢いづく。

ゴールを決めた後、家族やサポーターのみんなが大はしゃぎしている様子がわかる。こんなおいしい場面で自分が得点できた事が本当にほこらしかった。だが、まだ油断は出来ない。試合時間はまだあるんだ。

あとは、ゆっくりボールを保持していれば良いだけだった。完全に相手は足が止まっているので自分達の攻撃がシュートで終わればそれで良かった。あとは相手陣地から飛んで来るロングボールを跳ね返す。

それだけで良かったのだ。僕は最後に気を引き締め直した。「ゴールキック!」自分達のシュートが枠を外れ、相手のゴールキックになる。コートの中央付近で陣取ってた僕は、キーパーが蹴るボールに対して相手にせりまけずヘディングではじき返す事に専念。

時間も無い相手キーパーは予想通り大きくキックをする。そのボールが狙った様に僕の所に飛んで来た。
「これを跳ね返せば、ほぼ試合は終わる。」

僕は、そう思いボールの落下地点に向って動き出した。そのとき・・・

突然の出来事、アキレス腱断裂

「パキ!!」

今まで聞いた事が無い様な音が僕の耳に入った。そのままボールは僕の頭上を越えたのだが後ろの味方がカバーしてくれたので事無きを得たようだ。

僕は、気がついたら仰向けになって倒れていた。なぜだか理由はわからない。とにかく足が全く言う事を聞かないのだ。特に痛みも感じることはない、ただ自分の左足の足首から下に全く感覚がなっかたのだ。

これは後から聞いた話なのだが、明らかにおかしな音は周辺の選手達にも聞こえていたそうだ。そして、その明らかに不自然な倒れ方をした僕を見て、試合に負けているはずの相手選手でさえ

「ボールを外にだせ!タンカ!」そう言っていた。

僕は正直、何の事だか全く意味がわからなかったが、なんとなく自分が大きな怪我をしたという事だけは理解できた。気分も落ち着いている。何より、試合はまだ続いていた、コートの外に出てもなお、コート内の仲間に声をかけていたのだ。

僕がコートを出て数プレー後、時間にすると1、2分ぐらいたったところで試合は終了。僕等は勝ったのだ。しかし、僕のその安堵感とは裏腹にまわりの様子がオカシイ。僕に対する同情というかなんというか、とにかく悲壮感に溢れていたのだ。

僕は、周りを気にしてとにかく明るく振る舞った。確かに怪我はしたかも知れないが、自分では大きな痛みを感じてはいないし、きっと、今期のリーグ戦は無理だとしても、またすぐに復帰も出来るだろう。そう思っていたからだ。

「サッカーやっているとよくある事。」そういう感覚だった。

しかし、試合後すぐに病院に行った自分に予想もしないような医者の診断がくだる。

「アキレス腱断裂」全治10ヶ月の大けがだった。

僕は恐る恐る聞いた。

「先生、僕はいつサッカーが出来る様になるのでしょうか?元に戻る事は出来るでしょうか?

医者は言った。

「この様な形でアキレス腱を切ってしまったのだから、もうサッカーはほどほどにしてください。もう若くはないんだから。」

僕は、目の前が真っ暗になった。。。

長いリハビリ生活・思う様にいかない身体

その後、チームは見事その年のリーグで優勝した。また1つ目標の階段を上がったのだ。だが、僕は一人、リハビリに励んでいた。「またサッカーがしたい…」それだけを目標に。

リハビリ生活は本当に過酷だった。特にリハビリのメニュー自体が大変だったわけでは無い、ただ一番辛かったのは、自分が思っている以上に身体が言う事を聞かないという現実だった。

思う様に足が動かないし、動いてくれない。これまで培って来た練習の成果の様なものがみるみる退化していくのが分かった。筋力は衰え、すこし歩いただけで息があがった。もう笑うしか無かった。

この当時は「なぜ、自分だけがこんな想いをしなくていけないんだ!?」とか、「俺はこんなに努力しているのになぜ誰も分かってくれないんだ!?」とか、確かそんな事をずっと思っていた気がする。とにかく物凄くフラストレーションがたまっていた事だけは覚えている…

とにかく腐っていたし、何をやるにもイラついていた。リハビリを終えてサッカーの試合に復帰出来たのだが、もう元の様な状態ではない。試合はおろか、少し練習しただけで足の疲労はたまっていく。

「このままではいけない。もっと負荷をかけたトレーニングをしなくては…」

そう思い、走り出すと怪我した箇所が激しく痛む。別に、普通にサッカーをするだけならどうって事は無い。だけど、僕は普通にサッカーをしたくは無かった。以前の様に、激しく、緊張感の高まる中で、少し大げさかもしれないけどギリギリの中でのサッカーがしたかった。

でも、それが叶う事はなかった。

その復帰した年のチームはリーグ戦全敗。あっさりと降格する。「何の為に俺はアキレス腱を切ったんだろう?」そんな悲観的な気分にさえなった。

琉球代表という名の「チャンス」

2014年に入り気持ちも落ち着いていた僕は、もう一度上を目指す為の日々を過ごしていた。徐々にプレーも以前の状態に戻った事、そして経営していたスポーツクラブも多くの人達の支えのおかげで拡大していた事もあったからだろう。

「とにかく前に進むしかない」ポジティブな性格が功を奏したのか、これまで以上に精力的に活動をしていたのだ。そんなある日、後にこの琉球フットボール協会のチュアマンとなる、ミヤギタスク氏の方から連絡をもらう。

「面白い話がある、少し会えないか?」

近くのスタバで、コーヒーを飲みながら互いの近況について意見を交換する。彼も、サンビスカス沖縄のスタッフとしての顔もあるので、二人してクラブの設立の頃を思い出しながらこれまでの経緯を振り返った。

「サッカーの方はどう?脚は大丈夫?」そうミヤギ氏は語る。

僕は、今の状況を話した。グランドコンディションが悪い所でプレーすると必ず脚がむくむ事、ケアさえしっかりとすれば何とか次もプレー出来ている事、長くなるかもしれないが、それでも変わらず継続してトレーニングに励んでいる事。この様な内容だったと思う。

そこで、タスク氏は切り出した。

「実は、台湾で東アジアの地域や国のチームを集めた大会を開催する事になった。目的は、台湾のプロリーグ発足に向けた大会であること。そして、FIFAが認定した大会になるということ。」

「この大会を気に、東アジアという枠組みで独自の国際大会を運営したいという想いもあるらしい、相手チームにはナショナルチームの選手達や、元代表選手達も参戦する。もちろんプロチームとして活動しているチームも参加する。うちは沖縄の選手達を集めた社会人と大学生の連合チームになるし、レベル的には歯が立たないかもしれないけど、それでもチャレンジしてみたいと思わない?」

そう語ったのだ…。僕の答えはもちろん「Yes」だった。

 

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